料理や食材の産地をはじめ、“木津うを新”の近隣を中心に世界まで、「紀行」「文化」「歴史」「音楽」などさまざまな“お話し”や“画像”をUPしてまいります。おひまな時にでもご覧くださいませ。
当店の屋号“木津”は“浪速区史”によると次のような由来があります。
『推古天皇元年に、四天王寺建立の際、諸国より建築用の木材が木の津の地に着したとの事。後、木津と称す。現在の大国町、敷津町一帯を言う。当地には、他地域に見られぬ珍しい姓の人がある。例えば、徳珍、茶珍、鍋釜、雲雀(ひばり)、碇(いかり)、鰯(いわし)、法西、法覚、普賢、仏坂、覚道、改正、鈍宝、綿帽子、目蓮(めれん)、言美(ごんび)、言飛、道圓、道願、法心、鯛天、三條場、仁丹、妙玄、太真、成舞、浄閑、正月、十石、弓場、古銭、など。難波、木津の土地の有力の人に多い。』(浪速区史より)
同じく“木津”の名称を持つ「木津川」は、“木津の勘助”さんとも縁(ゆかり)のある大阪市南西部を流れる川と、三重から京都府木津川市を流れ、宇治川・桂川との合流地点、御幸橋(ごこうばし)へ至る木津川とがあります。別の川ですが淀川水系で水路としては連続し、どちらも一級河川です。
御幸橋は松花堂弁当と縁の深い石清水八幡宮さんのすぐ近くです。
‥その他の“木津”。
木津の勘助(中村勘助)
土木技術者。木津川を開削して勘助島を開発しました。
寛永16年(1639年)大飢饉の際、私財をなげうって民衆に分け与えましたがそれでも足りず大坂城の米放出を願い出ました。しかし聞き入れてもらえず“御蔵破り”を敢行し葦島(現在の大正区北部“姫島”)へ流されました。
落語にもなっています。